第二章、アシジのフランチェスコ
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ヨーロッパの歴史の中で見れば、フランチェスコが生まれた時代は戦争や混乱に充ちた時代で、同時に自由への憧れが強かった時代だったと言える。八世紀にヨーロッパを統一して、カルロ大王が始めた神聖ローマ帝国は続いていたが、もう一方キリスト教の最高責任者であるローマ教皇はヨーロッパ全体の上に、場合によって皇帝よりも強い権限を持っていた。その間にあちらこちらに独立の運動が始まり、特にイタリアでは「コムーネ」(自治都市)が盛んに設立される時代であった。
自治都市は皇帝や教皇からある程度の独立を得て、都市単位で民主主義的な政治を行なっていた。防衛のために町を城壁で囲み、すべての市民を平等に扱う法律を持ち、長官と市会議のもとで皆が政治に参加していた。危険の時に、戦える市民はありあわせの武器で軍隊となった。自治都市の設立を阻止しようとして何回もイタリアを戦略した、ドイツのホーヘンシュタウフェン家の赤ひげのフリードリヒ皇帝も、1176年に北イタリアのロンバルディア地方の都市同盟によって破られて、都市の自治権を認めたのである。
1198年にインノケンティウス三世が教皇になると教皇権の極盛時代になる。彼は教会の運営や法政の改革を行なう他に、勢力を持っていたローマの貴族たちを従わせ、政治にもかなり権限を及ぼす人物であった。皇帝にブラウンシュヴァイク家のオットー四世が選ばれるように力を貸し、後にオットーの勝手なふるまいのために彼を破門して、フリードリヒ二世を皇帝として認めた。フランチェスコが教会の中に新しい風を興そうとした時にはこの教皇が相手であった。
またこの時代の大きなできごととして十字軍が挙げられる。これは現代、どうしても納得のいかない問題であるが、キリスト教の聖地をイスラム教徒の手から解放する目的の他に、確かに栄誉を得たい騎士たちの冒険やシルク・ロードに進むために通り道を確保したかった商人の利益も随分絡んでいたと思う。
フランチェスコも小さい時から心の中で騎士の理想を抱いていて、十字軍に興味を持った。実際に二三才の時に第四回十字軍に参加するために出発したが、アシジをまだそんなに離れていない所で病気になり、その病気こそが彼の回心のきっかけとなった。後に彼は世間の栄誉を浴びた騎士としてではなく、キリストに従う霊的な騎士として1219年に東方へ渡ってスルタンと真理について話し合ったのである。
当時のヨーロッパの歴史で、中世の人々の自由への憧れを示すもう一つの大切なできごとは1215年にイギリスのジョン王が領主たちが提案したマグナ・カルタを承認したことである。これは王の絶対権限に制限を付けた最初の憲法と言える。
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フランチェスコが直接著わしたものは比較的に少ない。体系的な書物というよりも、その時その時必要に応じて著わした短い文がある。二つの会則の他に、手紙、讃歌や祈りの色々などである。フランチェスコは学問と無関係で、彼の教育といえば、普通の子供が受ける程度のものに過ぎなかった。しかも一生、学問に対して嫌悪感を持っていた。しかし小さい時から歌や詩が好きで彼の書いたものは心が溢れる、詩的感覚に充ちたものである。これらを日本語で「アシジの聖フランシスコの小品集」の中に読むことができる。(「アシジの聖フランシスコの小品集」、圧司・浜村訳、中央出版社、1974)。
フランチェスコの小品集と彼についての諸伝記を集める基本的な文献は「アナレクタ・フランチスカーナ(フランチェスコの源資料)で、その現代イタリア語訳は「フォンティ・フランチェスカーネ」、(フランチェスコの原典)である。(「Analecta Franciscana」, 10 volumes, Quaracchi, 1885-1941。「Fonti Francescane, Editio Minor 」、Editrici Francescane, 1986 )。
フランチェスコの伝記を語る一番古い資料はチェラノのトマソの「第一伝記」である。(「Fonti Francescane」, Vita Prima di Tommaso da Celano, Pg.197)。
1228年に、フランチェスコが亡くなって二年後、教会から列聖された時、色々な資料が集められ、教皇グレゴリオ九世自身がフランチェスコの弟子であったトマソに頼んだ(1229)。トマソはまた1246年にフランシスコ会の総会に頼まれて「第二伝記」を書いた。(「FontiFrancescane」, Vita Seーconda diTommaso da Celano, Pg.325 )。
公式に作らせたものでなく、個人的に書かれたものの中に次の伝記がある。
「三人の伴侶による伝記」(「Fonti Francescane」, Leggenda dei tre compagni, Pg.695。「三人の伴侶の著はせる聖フランチェスコの伝」、八巻訳、警醒社書店、1925)
「ペルージャの伝記」 (「Fonti Francescane」, Leggenda perugina, Pg.747)
「聖フランチェスコの小さき花」(「FontiFrancescane」, I Fioretti di san Francesco, Pg.863 。「聖フランシスコの小さき花」、石井訳、あかし書房、1982)。
しかし1260年の総会で、当時フランシスコ会の総会長を務めていたボナヴェントゥーラは創立者について理想的な肖像を残すために、前の伝記に基づいて公式なものとして「大伝記」を著わした。(「Fonti Francescaーne」, Leggenda maggiore di San Bonaventura, Pg.513。「聖ボナヴェントゥラによるアシジの聖フランシスコ大伝記」、宮沢訳、あかし書房、1981)。
ボナヴェントゥーラは前の伝記を全部焼くようにも命じたが、幸いに隠されて、今それを「アナレクタ・フランチスカナ」の中に見ることができる。
フランチェスコについて現代に書かれた文献は多いが、日本語で書いたいくつかのものをこの論文の終わりの参照文献の中に入れたのである。
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フランチェスコは1181年に中央イタリアのアシジという町で、布の商人であったピエトロ・ベルナルドーネとピカ夫人の長男として生まれた。富有な家族で、父は商売のためによくフランスへ行って取り引きしていた。生まれた子が男で、店の手伝い、資本の増大等を考え、この子が幸運をもたらしてくれるだろうと望んでフランチェスコ(フランス人の意味)という名をつけた。
フランチェスコの青年時代は父の店で商売を手伝うことや町で仲間と遊び回ることで過ぎた。店ではなかなかの腕のいい商人で、性格が明るく、客を安心させて買わせるような上手な話し方ができて、父の自慢であった。しかし夜、又は祭りの日には大勢の仲間と共に疲れることなく、食べたり、飲んだり、歌ったり、踊ったりしていた。フランチェスコは青年たちの王と言われるほど、魅力があり、皆を従わせた。湯水のように父の金を使って、皆を喜ばせていた。商売のためによくフランスと関係があり、店には遠くから来る人もよく訪ねるし、おもしろい話しをして、友達を楽しませる材料に事欠かなかった。フランス語も、歌も上手で、当時盛んだったトルバドゥール(南フランスの吟遊詩人)の真似をして、歌で当時のできごと、戦争や恋愛の物語、夢を見るような伝説を上手に聞かせていた。
フランチェスコ自身もいつも騎士たちの理想を抱いていて、その上に父のプライドも加わり、早くも戦争に参加する時が来た。これは1202年にアシジと隣の町ペルージャとの間の戦争だった。コッレストラーダというところで戦闘が行なわれ、一日のうちにアシジの軍隊にとって、虐殺に変わった。兵や射手は皆殺されて、騎士は捕虜としてペルージャに連れていかれた。馬を所有するということは身の代金が払えるということをも意味するからである。フランチェスコにも一年の牢獄の生活が待っていた。幸せと快楽をずっと経験していたフランチェスコはコッレストラーダの虐殺、牢獄生活やそれに伴う病気によって、心が変わる。しかし牢獄で苦しみながらも明るい性格は失わなかった。冗談を言いながら、神経障害直前の仲間を笑わせることもあった。
父ピエトロ・ベルナルドーネが身の代金を払ってアシジに帰れてもしばらく病気(結核と思われる)が続いた。元気になって120年に、フランチェスコはまた戦争に出発する。偉大な騎士ゴーチェ・ド・ブリエンヌはローマ教皇に南イタリアの領土を返すために戦い、その後十字軍としてパレスチナに渡ろうとしていた。フランチェスコも栄誉を目指してゴーチエの軍に加わろうと思った。商人家族の出身であるフランチェスコは騎士として栄誉を受ければ、彼が憧れていた貴族と同等になれる。裏で父もそれを望んで、それが実現するために金を惜しまなかった。しかし、出発したその日の夜、夢の中である声を聞いて、戦争をやめて、アシジに帰るように言われた。コッレストラーダの虐殺の思い出に圧倒されて怖くなったことも考えられるが、あんなに栄誉を欲しがっていた人がそれを捨てて、まったく新しい生き方を始めることの説明にならない。確かにその夢は不思議で、神秘的な体験とでも言えよう。アシジに帰ったフランチェスコはしばらく前の生活を続けたが、その時からアシジの近くにあった洞窟に祈りへ行くようになった。人に知られないように、一人の同級生と共にそこへ行ってしばらく祈り、人生や宗教について語り合った。
1205年の末に古い小聖堂サン・ダミアノの中で祈りをしていた時、十字架の方から声がした。「私の教会が破損している、それを直しなさい」、と言われた。破損しているというのは、今では普通当時の教会が堕落しているという意味にとられている。しかしフランチェスコは文字通りにその言葉の意味を取って、一生懸命に古いサン・ダミアノ聖堂の修理にかかった。ところが材料を買うために父の金を持って行ったことから喧嘩になり、父は息子を教会の司教の裁判にかけた。最近変になった息子は自分の財産を貧しい人に配ったり、金をも盗むことがあるので息子に相続権を認めない。これはお金を持って行ったという問題だけではなく、ピエトロ・ベルナルドーネが財産増大のために希望をかけていた長男が心が変わって店をほうっておき、宗教的な生活を始めたことで怒ったのだろう。司教とアシジの皆の前に連れていかれたフランチェスコは父に金を返し、新しい、自由な生活を始めるしるしとして着ていた服を全部脱いで、ピエトロ・ベルナルドーネに返した。
「私は今後、まったくの自由の中で『天にましますわれらの父よ』、と言うことができます。もはや父ピエトロ・ベルナルドーネとは言いません、あなたの金ばかりか、衣服のすべてをも返します。私は裸で主と会いに出かけます」(チェラノ、第二、12)
とはその時のフランチェスコの言葉である。
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お祭り騒ぎが好きだったフランチェスコが、友達を離れて洞窟の中で祈り、古い教会の修理に励んでいる。あんなに金銭と権力を欲しがっていたフランチェスコが汚い姿をして、ぼろぼろの衣類を着ている。今の仲間はアシジの貴族ではなく、皆に捨てられている貧しい者だ。以前はあれほどおいしい料理に目がなかった彼が乞食となって人から残飯を乞う。しかし彼は今福音に書いてある言葉が分かっている。世間の思い煩いから解放された心の自由さを彼は今楽しんでいる。
「空の鳥を見なさい。種をまくことも、刈り入れることもせず、また倉に納めることもしない。それなのにあなたがたの天の父は、これを養ってくださるのである。あなたがたは鳥よりもはるかにすぐれているではないか」(マタイ、6ー26)。
一ヶ月洞窟の中に隠れていて、初めてアシジに現われたフランチェスコはアシジの人々の激しい怒りに遇った。
「彼を知っていた人は、今の状態を過去の姿と比べ、彼を嘲って『気違い、気違い』と叫び、石や泥の塊を彼に投げた。苦行によってあんなに変わったフランチェスコの姿を見て、アシジの人々は彼が狂人になったとしか思えなかった。しかしフランチェスコの忍耐は高慢に勝り、侮辱に負けず、かえってその試練のために神に感謝していた。(チェラノ、第一、11)。
しかし「気違い」と呼んでも、フランチェスコの姿に魅力を感じざるを得ない人もいた。元の仲間の間からも何人かが、フランチェスコと同じく全てを捨てて、ぼろ着を着て、乞食の生活を始めた。その中に、アシジの富裕な市民で、有名なボローニャ大学の法学博士ベルナルド、その友人だった同じ法律家のカターニのピエトロ、教会の司祭だったシルヴェストロ、学問のない、最も単純な弟子エジディオ、十字軍の騎士で返って来たアンジェロ・タンクレディ等がおり、弟子としてフランチェスコに従った。
回心したフランチェスコとその兄弟たちの態度の特徴は、気違いと言われるほど常識を超えたふるまい、貧しい生活、貧しい者への奉仕、その中でも特に一番捨てられた者、癩病者への奉仕であった。まず、いい家の長男が家族や商売を捨てて貧しくなり、教会の修道会にも入らないで神に仕えるのはアシジの人には常識を超えたものに見えた。次は父からアシジの司教に訴えられて皆の前で裸になったのもまた同じことを考えさせる。フランチェスコは裸になることに特別な意味を見出していた。全てのものへの執着を離れて、まったく自由に生きるしるしとして思っていた。死ぬ時にも裸にされて、しばらく大地に寝かしてもらうように頼んだ。
1219年に、弟子が多くなって、もう気違いフランチェスコとその兄弟たちが立派な霊感を持つ修道士だと皆が分かったころ、ぼろ着を着た五千人の貧しい兄弟たちがアシジの外で総会を開いた。その総会にローマの教皇代表として遣わされて、ウゴリーノ枢機卿が出席していた。兄弟会の様子を見て、なんとか他の修道会と合併させるか、会則を作らせて組織化するかを考えていた。フランチェスコはウゴリーノ枢機卿の前で叫んだ
「兄弟たち、神様は私に単純さへの道を示してくださったのです。私は他の会則のことを聞きたくありません。主は私に、私をこの世での新しい気違いにするつもりだとおっしゃいました。そして神様はそれ以外の知識によって私たちをお導きになろうとはしません。あなたがた自身の知識や知恵をあなたがたを混乱におとし入れるためにお使いになるでしょう」(「ペルージャの伝記」、114)。
五千人の兄弟はこの言葉を聞いて、教会の代表者がいることを考えて震え始めた。しかしウゴリーノ枢機卿は気違いのように見えるフランチェスコは一つの霊感に動かされて語っているのだと了解した。
物への執着、権力、知識や知恵をも離れたフランチェスコの心の悟りを示す、「完全な歓び」という題で知られている一つの話しがある。
ある冬の日フランチェスコは一番親しい弟子の一人であったレオーネと共にアシジに向かって道を歩いたら、進みながら次々とこんなことを言った。
「おお兄弟レオーネ、たとえ小さき兄弟たちがいたるところで立派な聖性の手本を見せたとしても、そこには完全な歓びはないのだよ」。
「おお兄弟レオーネ、かりに小さき兄弟が目が見えない人、からだの曲がった人、耳、口、脚が不自由な人のすべてを治療し、悪魔を追い出し、死者をよみがえらせたとしても、そこには完全な歓びはないのだよ」。
「おお兄弟レオーネ、もしかして小さき兄弟が人間の知りうるすべて、学問も聖書を知りつくして、人間の心の前進と秘密を予言し、啓示することができた場合でも、そこには完全な歓びはないのだよ」。
「おお兄弟レオーネ、神の雌羊よ、万が一小さな兄弟が天使の言葉を語っても、また空の星や地上の宝のことごとく、鳥、魚、人間、樹木、石が持つ力の全てが開示されたとしてさえも、そこには完全な歓びはないのだよ」。
「おお兄弟レオーネ、もしかりに小さき兄弟がありとあらゆる人間をキリスト信仰に帰依させたとした場合ですら、そこには完全な歓びはないのだよ」。
今度レオーネは尋ねる、「兄弟、神の名でお願いします。完全な歓びはどこにあるか、おっしゃってほしいのです」。
あえて言えば、それはこんなことなのだ。はなはだ意表をつく冷水が彼らを見舞ったとする。雪にぐっしょり濡れ、寒さに凍りつく思いで天使の聖マリア教会に着いた彼らは、僧院の扉を叩く。急いで体を乾かし、暖をとりたいのだ。が、彼らに扉を開けてやるところか、人は二人をにせの兄弟だととがめるのだ。二人とも、立ち去るがよい。そして彼らは夜になるまで、空腹で死にそうになりながら、雪と風の中、戸外にとどまることになる。しかし彼らは愚痴をこぼさないで、非道な門番を呪うことはしない。彼にこんな荒々しい仕方でしゃべらせているのは神様なのだ、と考えるであろう。そして、ここにこそ、兄弟レオーネよ、完全な歓びがあるのだ。さらに、あきらめきれぬ二人がふたたびこの黙した扉を叩き、こんどは戸を開けてくれはしたものの、その男が彼らを追い立て、ののしり、平手打ちを食わせて、施寮院へ行けとどなったとして、彼らはこれらすべてを快活に、慈愛をもって受け入れたとするなら、ここにこそ、兄弟レオーネよ、完全な歓びがあるのだ。でも、これはあんまりだ。自分らはおなかもすいている。お願いだ、神の愛によって戸を開けておくれ。するとまた、人は節くれ立った棒で彼らを打ち、頭巾に手をかけて引きずり、地面にひっくり返すと、泥のなかでめった打ちを食わす。これらすべてにもまた、キリストの苦難をしのびながら、彼らは耐えぬく。ここに完全な歓びがあるのだ。(「Fonti Francescane」, I Fioretti di san Francesco, Pg.882 。 ジュリアン・グリーン、「アシジの聖フランチェスコ」、原田訳、Pg.266)
この話しは禅の中に見られる問答にあまりにも似ていて、いかにフランチェスコの心は全ての自己満足、執着、宗教的考え、知識、常識をも超えた境地に達し、真実の在り方をはっきりと見ていたことかを示すのである。
フランチェスコが回心してすぐわかったことは、心が自由になるため、全ての物への執着を離れるためには、実際にものを捨てて貧しい生活を営なむことが必要なのだ。そのために裸になるほど家のものを全て父に返した。自分も、ついてきた兄弟も毎日物乞いのように「托鉢」していた。貧しさを人格化して「清貧なる姫君」と呼んで、一生の間一番大事なものに思った。しかし最初の兄弟の小さなグループが町から町へ、畑や森を通りながら歌って進む姿を見た人は神秘的な力がそこにあると思っただろう。帯の代わりに縄を使い、袋に似た長衣を乞食のように着てはいるが、子供みたいに快活な彼らは悲しみが存在しない別世界から来たように思えた。この生活にこそ完全な歓びがある。
フランチェスコがいかに「清貧」を大事にしていたかを示す二つの事件が挙げられる。
1219年の五千人の総会の時、アシジの人々は食べ物を提供して、その上慌てて一軒の大きな家を建てた。何も知らないでそこに着いたフランチェスコは怒って、屋根に上って瓦を次々と空にとばし散らした。何も持ってはいけない修道士はこの家を建てて「聖なる清貧への何という侮辱か」と叫んだ。アシジの商人代表が来て、それは兄弟会のものではなく、町が貸してあげるものだと言って、フランチェスコを止めた。(チェラーノ、第二、57)。
1220年にフランチェスコはボローニャを通ってベルナルドの建てた兄弟の住まいを訪れるために足を止めたが、驚いたことにそこで目にしたのは質素な修道院ではなく、壮大な邸だった。ここに兄弟たちが腰をすえているのを見て、「清貧なる姫君」へのこんな侮辱に怒り、彼は全員をそこから追い出し、もっと質素な所へ行って住むように命じた。(チェラーノ、第二、58)。いい家に楽に暮らせばキリストの愛を人々に伝える熱意がすぐに冷めると思っていた。
フランチェスコとその兄弟たちの活動と言えば、町から町へ歩き回って説教し、人々に神の救い、イエズス・キリストの愛を伝える他に、自分たちよりもっと貧しい人への奉仕、特に皆から避けられていた癩病者への奉仕であった。フランチェスコのころは干ばつや大雨によって作物が不足して、飢餓に戦争が加わり、あらゆる種類の貧者が出回っていた。
その上に、社会のまったく外側に、隔離所に癩病患者が閉じ込められていた。しかし中には少しの自由を得ている患者もいて、灰色のぼろ着に殆ど完全に身を包み、人をこわがらせるかのように不気味ながらがらを振りながら畑を歩き回っていた。フランチェスコは若い時に父の店で働いていたころ、貧しい者にいつも金を恵んだが癩病者を見るに耐えなくて、隔離所の近くを通るといつも手で鼻をふさいでいた(チェラーノ、第一、17)。回心してからこの態度を悔やんで、遺言の中で「罪の中にいたころ」と言いながらそんなことを語る(「Fonti Francescane」,Pg.66)。しかし回心のすぐ後、馬に乗ってアシジの近くを通った時一人の癩病者に会った。最初はかなりの嫌悪感を持ったが、それをのりこえて馬からとび降りて癩病者に近付いた。フランチェスコは顔のすべてが一つの傷でしかないこの癩病者の手を取って唇に押し当てたと言われる。後でも兄弟たちと一緒にこの哀れな者たちの腐った肉のかけらを取り除き、膿を拭い、キリスト自身を世話するかのように扱っていた。(チェラーノ、第二、9 )。キリストの愛に徹底して、キリストの体であるこの病人をも自分と同じように愛していた。もう恐いことはない、自分に害を加えるものはない、自分が無くなって、すべてのものと溶け込んだのである。しかもそれは頭の中の理屈だけでなく、心の中の気持ちだけでなく、毎日実践していたのである。
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フランチェスコが活躍した時代に教会はどういう状態だっただろうか。教会の人から彼はどんな風に見られていただろうか。フランチェスコは他の修道会、他の聖職者と違って、世間の理想を離れて、純粋に文字通りに福音を生きようとした。しかし彼の力強さ、彼の純粋な心は簡単に真似できるものではなかった。彼の生き方や言葉が教会を振動させたと言っても、彼が亡くなる前にも、兄弟会は他とあんまり代わらない修道会になっていた。
一三世紀の教会については全体として、かなり暗いイメージを描くことしかできない。フランチェスコも教会が混乱の危機を通過していることをよく心得ていた。一方ローマ教皇インノケンティウス三世の何度にも及ぶ教書が当時の教会の欠点を示す。そこで聖職者による高利の金貸し、聖職売買、贅沢な暮らし、美食好み、性的無節制等が明らかにされている。一方それを咎める教皇は政治と権力に愛着を示している。教会は表面的に荘厳な典礼式や立派な聖堂、建築、美術を通して栄光を表わしていたが、霊的に破滅しかかっていて、福音書の要求するところを軽視していたのである。教皇インノケンティウス三世は確かに霊性を持つ人物であり、教会の深い改革に手を付けたが、同時に彼は自分自身をキリストの祝福にあずかるものとして霊的権力と世俗権力の絶対的行使者と見なしていた。全ての人間より勝るもので、ただ神のみに裁かれる存在だと思っていた。どこかの君主が反抗的なふるまいを見せたならすぐに破門を出したのである。また一般の司祭は若干の例外を除けば教養や熱心さが足りなくて、日曜日の説教以外、一般の人に神の言葉を告げることを考えもしなかったのである。
真剣に真理を求めていた人は、聖書の中で掲示された理想に憧れ、教会がこれを与えてくれないのを見て、さまよい、他のところへ探していた。中世時代の教会は異端の運動に悩まされていた。これらの異端者は共通点として教会の堕落した姿を批判し、自由に聖書を勉強し、それを人々に教え、自分も貧しくなって、特に貧しい人を相手にすることにあると言われる。いくつかの名前だけを上げるとすれば、フランスのピエール・ド・ヴォー、南イタリアのフィオーレのジョアキーノ、北イタリアのブレッシャのアルナルド、カタリ派の人々等がある。
フランチェスコも彼らと同じように盛んに聖書を引いて語り、貧しくなって、貧しいものを相手にし、教会の欠点を批判したりしていたので、異端者の一人に間違えられる危険があった。しかしフランチェスコは母なる教会の忠実な息子として教会の命令に背くことはなかった。批判的な立場というよりも、彼が福音書を通して悟った神の愛に燃えて、できるだけ大勢の人にそれを伝える熱心さがあった。
1209年に仲間が十一人集まったころ、フランチェスコは兄弟会を認めてもらうために、主に聖書の引用で作った会則をもってローマへ行った。しかし異端の恐怖をいつも感じていたインノケンティウス三世はぼろ着の姿の十一人を見て、その話しぶりを聞いたとたんに彼らを引き下がらせてしまった。ローマにいたアシジの司教の援助で異端の問題を取り調べていたサン・パオロのジョヴァンニ枢機卿と話してから教皇との謁見が得られた。兄弟会は認められたが会則は実行不可能だという理由で、すぐに認可されなかった。サン・パオロのジョヴァンニ枢機卿は教皇を代表する兄弟会の保護者に指定された。1221年に、病気でもう兄弟会の幹部の職を離れたフランチェスコは新しい会則を書いたが、その年の総会で悲しいことにこれもあまりにも長く、聖書の引用が過剰だとの理由で不採用になった。三回目に書き直した会則は他の人も手を加え、かなり和らげられ、聖書だけでなく、法律的な言い方をも入れて、1223年に教皇オノリウス三世によって認可された。しかしそれはフランチェスコが望んでいた福音的に純粋生活の会則ではなかった。
アシジの近くでリヴォ・トルト、そしてポルチウンクラというところに住まいを置き、小さなグループは宣教に励んだ。二、三年して兄弟がますます増加してイタリア全体や隣接の国にも活動を広めた。
1212年にキャーラという若い女性がフランチェスコや兄弟たちと同じ生活をしようと願って着衣した。彼女に従った他の女性と共にサン・ダミアノ聖堂に置かしてもらって、「貧しき夫人たち」という姉妹会を作った。キャーラの伝記、そしてキャーラとフランチェスコのつながりも興味深いものである。(キャーラの著書とその伝記は「Fonti Francescaーne」,Pg. 1151-1279 にある)。
年月が経つに連れてフランチェスコ派の兄弟たちが非常に多くなり、アシジの貧者フランチェスコは聖人だという評判が教会の中でも広がった。その証拠に、1218年に新しい兄弟会の保護者になったオスチアのウゴリノ枢機卿がフランチェスコにローマ教皇と枢機卿たちの前で説教することを依頼した。最初ウゴリノ自身がラテン語で説教を準備し、暗記するようにフランチェスコに渡した。フランチェスコは準備はしたが、大勢の偉い人の前で暗記したものがなにもかも言えなくなった。それで心から溢れるまま大胆に民衆語を使って説教し始めた。教会の偉い人たちの間には喜びと反省の涙も落ちたそうなのである。(「Fonti Francescane」、Leggenda Maggiore, Pg. 622 )。
1219年にフランチェスコが聖地を訪ねた。若い時に十字軍の騎士として行こうとも思ったが、今度は神の言葉とキリストの愛をもってイスラム教徒をキリスト教に帰依させようと志した。ダミエッタで彼と同年齢のスルタンと真実や宗教について色々話し合うことができた。しかし十字軍の間で見たことによって、特にダミエッタが落ちた時の虐殺を見て、騎士への憧れが完全に消えてしまって、胸ふさがる思いでイタリアに帰ったのである。
フランチェスコの最後の数年は病気による苦しみの受難である。1220年に五千人を超える修道会を導くことができなくて、幹部を辞職して、カターニのピエトロが総会長に任命された。次の年彼が急になくなり、コルトーナのエリアが総会長を継いだ。フランチェスコは二十歳の時のペルージャでの一年間の捕虜生活で結核にかかり、体がいつも弱かった。その上に貧しい生活、乏しい食事、苦行をも重ねたので健康がますます悪くなった。聖地を訪問した時、砂漠の太陽で目をやかれて殆ど見えなくなった。
1223年にローマで会則を認可してもらって後、隠遁生活や治療のための休みに兄弟たちを励ます、又は一般の人に説教するための旅行を繰り返した。体が病気でも精神は不思議なエネルギーに動かされていた。キリストの愛はぼろぼろの体の中で燃えて、愛と平和を全ての人に伝える熱心さがその体を動かしていた。
フランチェスコは回心の時以来いつも自分
の心をキリストの心と一つにしていた。いつもその名を唱え、服にも壁にも十字架の印を描き、祝福として人、動物などの上に十字架の印をきっていた。教会の前を通る時、また自然にも十字架の形をしているものを見れば、必ず止まってそれを拝んだ。1224年の九月、アルヴェルナの隠遁所でキリストの受難の苦しみを黙想している時に、一緒にいた三人の伴侶を驚かすほどの不思議な風景の中に空に火のかたまりが現われた。火がフランチェスコの体まで近付き、手と足と脇腹に十字架上のキリストと同じような傷が彼の肉にも刻みつけられた。これはキリスト教で時々見られる奇跡で、「聖痕」という。フランチェスコは後にそれを隠そうとしたが巻いた布からいつも血が滲んでいたので皆に知られたのである。(三人の伴侶の伝、「Fonti Francescane」, Pg. 744)
1225年に目の手術、次の年色々な治療も受けたがよくならず、1226年、十月四日、アシジの近くのポルチウンクラで死去した。「本当の臨終が来たと思ったら、裸のままの大地に、私を裸で寝かせて欲しい。そして、息を引き取ってからでも、ゆっくり歩いて千メートル進むぐらいの時間は、まだそのままにしておいて欲しい」とは亡くなる前の彼の言葉だったのである。(チェラーノ、第二、217)。
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