第四章、道元の世界




1) 歴史的、宗教的背景

2) 中国の宋時代(960-1279)の禅宗

3) 道元の生涯

4) 道元の禅







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1) 歴史的、宗教的背景


 道元が生きた時代は日本で、鎌倉時代と言われ、政治的混乱や戦いの多い時代であった。1185年に滅亡した平氏政権の代わりに武家勢力の代表者となった源頼朝は鎌倉に幕府を開いて、政治機構を整えていった。これは武家政権とも言い、1333年(元弘三年)の幕府の滅亡まで続くのである。
 幕府の機構の内、最も重要なものは軍事、警察をつかさどる「侍所」(さむらいどころ)、政務一般をつかさどる「公文所」(くもんじょ)及び訴訟をつかさどる「問注所」(もんちゅうじょ)の三機構である。重要な問題はこの三所の長官が処理したが、最終的決定は頼朝自身やその次の台頭によったのである。又、日本中の諸国では「守護」と「地頭」という制度が設置された。守護とは一国に一人がいて、幕府開設に功のあった武家が任命された。武士の統制、治安警察(謀反人や殺害人の逮捕、取り締まり)が任務であった。地頭の方は全国の国衙領や荘園に設置され、主として御家人が任命された。荘園の中の租税の徴収や土地の管理、又荘園内の警察権、裁判権をも持っていた。
 鎌倉幕府は将軍と御家人(武士の家族)との主従関係に基づく「御家人制」を基礎として、両者の固い結合によって全国を支配した。御家人とは将軍と主従関係を結んだ武士のことであり、幕府を支える人的基盤であった。御家人から将軍に対する奉公と将軍から御家人に対する御恩によって、封建的な社会制度が固まったのである。将軍は御恩として武士の旧来の所領を守ってやり、軍事的功績に対して新たに新しい土地を与え、又守護や地頭などの官職に任命した。一方御家人の奉公として、将軍の命令で直ちに参戦する軍事奉仕、又は平和の時において、朝廷を守る京都大番役や鎌倉幕府を警備する鎌倉番役につくこと、その上朝廷、幕府、神社の修造費や儀礼費を負担する義務があった。
 1199年に源頼朝が病死した後、源氏の将軍が次々に姿を消し、北条氏が他の有力武士を倒しながら、幕府の実権をにぎって、執権政治が確立した。北条時政・義時父子が頼朝の後に将軍となった頼家・実朝を謀殺し、その間、有力御家人をも次々に滅ぼした。1203年に、北条時政は「政所」(まんどころ、前に公文所と言われた)の執権となり、ついで義時も政所と侍所を兼任するようになり、将軍は有名無実化し、北条氏による執権政治が確立したのである。
 京都では「院」を中心とした貴族や寺社が荘園を経済的基盤にしていたが、北条氏を中心とする武士の進出のために勢力は衰えていった。院政を行なっていた後鳥羽天皇は勢力回復を試みて軍備を整え関西の方に武力を増強した。しかしそれに対し北条義時は上皇に対抗するようになった。後鳥羽上皇は北条義時追討の命令を下して、承久の乱が起こった(1221年)。しかし上皇の呼びかけに応じた武士が少なく、幕府の方は御家人を説得して結束を固めて、院軍を破ったのである。承久の乱の結果、貴族政権は決定的な敗北を受け、同時に北条氏による執権政治が確立し、武士の荘園侵略が激化した。後鳥羽、順徳、土御門の三上皇は配流になり、その所領が没収され、上皇に味方した公家、武家、寺社の所領も没収されて、新しい地頭が設置された。このような混乱した出来事は当時若かった道元にも影響を与えたはずである。京都を中心とした承久の乱はよそごとではなく、特に父通親を通して三上皇と縁が深く、近親の何人も悲運に遇ったであろう。毎日、三上皇の配流、武家や公家の処刑・流罪を聞きながら、世の無常を深く感じたに違いないであろう。
 北条義時の死後執権職を継いで政治力に優れた泰時は、幕府内を改革し、1232年に激増しつつあった御家人の訴訟を処理するために武家社会のためだけの「御成敗式目」という法律を作った。泰時の後を継いだ時頼は朝廷と幕府の関係の改善に努め、後嵯峨天皇の息子宗尊親王を迎えて将軍とした。この時以来、1333年の鎌倉幕府滅亡までの四代皇族将軍が続いた。若い将軍であった時頼は1247年に道元を鎌倉に招いて菩薩戒を受けた。道元に、鎌倉に留まって欲しいと言ったが、道元が永平寺へ帰ったため、時頼は蘭渓道隆を招いて建長寺を建てたのである。
 鎌倉時代が政治的に混乱していても農業生産が発展し、荘園内の業者によって作られた商品が広く取り引きされて、市や店が発達してきた。貨幣の流通と商業・金融業の発展は特にめざましかった。又、日宋貿易は日本の経済に大きな影響を与えた。鎌倉幕府は南宋との貿易に関心を寄せ、鎮西奉行の管理下のもとに博多と明州との間に船が往来し、木材、硫黄、刀剣、扇子、漆器などが輸出され、香料、薬品、陶磁器、絹織物、書籍、宋銭などが輸入されたのである。
 平安時代の末期から戦乱が相次いで起こり、人々は極度の不安に陥った。旧勢力の代表である貴族が衰え、旧仏教の天台、真言両宗は学問的、戒律主義的仏教であり、密教化して貴族層と結び、民衆を救済することができなかった。そこで旧来の仏教から離脱して武士や庶民を対象に新しい立場から仏教を説く集団が次々に出現した。これらは浄土宗、浄土真宗、時宗の念仏系と、法華宗および禅宗系の臨済宗・曹洞宗に分けられる。鎌倉新仏教と言われるこの諸宗に共通する特色はわかりやすい教えや修行法、自己の信仰を大事にすること、武士、農民、商工業者を相手にするようなことである。しかし新仏教の開祖がすべて比叡山に登り天台宗を学んでいたことも注意すべきであろう。


 道元の他に新仏教の開祖として主な名前を挙げてみれば、道元よりさきに生まれたもので浄土宗を開いた法然上人、浄土真宗を開いた親鸞、また宋の臨済宗を伝えた明庵栄西がいて、道元より後のもので時宗を開いた一遍、法華日蓮宗を始めた日蓮などが挙げられるのである。
 法然 (1133ー1212)は、比叡山で天台宗を学んだが後に浄土宗を開いて「自力作善」という考えに対して「他力易行門」を説いた。阿弥陀の本願を信じてひたすら念仏を唱えれば、すべての人が阿弥陀によって救われると教えた。
 親鸞 (1173ー1262)は、浄土宗の法然の考えを基礎として浄土真宗を開いた。念仏の形式や回数よりも阿弥陀の本願を信ずる心(信心)を重視した。
 栄西 (1141-1215)は、宋の臨済禅の教えを伝えた。坐禅や公案を悟りに至る方法として中心にした考え方。栄西は二代将軍源頼家や北条政子の帰依を受け、鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を建てた。彼の系統が全国に広まり、その中に鎌倉の建長寺の開祖である蘭渓道隆、円覚寺を開いた無学祖元、京都に東福時を開いた円爾弁円がいる。道元が栄西に実際に会ったかどうかが問題になっているが(参考に、鏡島元隆、「道元禅師とその周辺」昭和六〇年、大東出版社。第一章、栄西・道元相見に付いて)、それを別にして栄西の弟子であった明全を通して非常に栄西の影響を受けたと言える。また円爾が東福時を開いて、盛んになった時、近くの興聖寺にいた道元はそこを離れなければならなかったのである。
 一遍 (1239-1289)は、時宗を開いて、念仏を唱えながら全国を遊行していたから「遊行上人」と言われ、念仏に合わせて踊る「踊念仏」を行なった。
 日蓮 (1222-1282)は、法華宗(日蓮宗)を開いた。比叡山で修行し、天台宗と同じく法華経を教義の中心にしたが、理論よりも実践の重視を唱えた。「南無妙法蓮華経」という題目を唱えれば、直ちに仏となることができるという「即身成仏」を説いたのである。


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2) 中国の宋時代(960-1279)の禅宗


道元禅師は同時代の人々と同じく、社会の混乱のために非常な不安を感じ、当時の仏教から宗教の根本問題について解決が得られず、特に建仁寺で修行した栄西の禅を明めようと思い中国に渡ったが、宋時代の禅宗の状態について少し触れてみたいと思う。

 中国で唐の始め頃から盛んだった六祖慧能系統(特に青原行思と南岳懐譲の二つの系統)の南頓禅は五代から北宋時代にかけて五宗七家に分かれてきた。五宗とは、南岳系統で臨済義玄から名を取った臨済宗、A山霊祐と仰山慧寂の二人から名をとったA仰宗、又、青原系統で洞山良价と曹山本寂の二人から名を取った曹洞宗、雲門文偃から名を取った雲門宗、法眼文益から名を取った法眼宗の五つであり、七家とはこの五宗に臨済宗が分かれた楊岐派と黄龍派を加えた七つの派を示すのである。
 宋代になるとA仰宗がまず法脈が絶え、法眼宗もだんだん衰えた。最初に雲門宗が栄え、次に臨済宗の黄龍派、後に楊岐派があまねく広まった。曹洞宗は始めに弱かったのに芙蓉・宏智・真歇の三人が出るに及んで勢力になったが長く続かなかったのである。
 宋代の禅の大きな出来事として、「景徳伝燈録」や「雪竇頌古」の成立と宏智正覚の黙照禅や大慧宗杲の看話禅の成立が特色である。
 「景徳伝燈録」は景徳元年(1004)に道原によって編集され、大蔵経に入れられた。「続宝林伝」や「祖堂集」に基づいて、その後にできた史伝の五燈録の元になった。1701人の伝記が記録されているので禅宗に1700則の公案があるとはここからでたのである。又すぐ後に(1029年)雲門宗の雪竇重顕が「雪竇頌古」を著わした。これは悟りの境涯を詩偈で表わした世界を展開させる。後に円悟克勤が評唱を加え「碧巌録」になった。これについて、道元も1227年の八月頃、宋から帰国する直前に碧巌録が手に入って、それを写し始めたが間に合わなかったところ白衣の神人が現われて手伝い、一夜で(一夜碧巌)写すことができたと言われる。この時代に写本より印刷版が始まり、サイズも小さくなり、歴史的な燈録や禅師の語録は広く普及し、多くの禅僧に参学されるようになった。 
 又この時代は黙照禅と看話禅が成立し、互いに批判し合う時代であった。丹霞子淳の弟子であった宏智正覚は天童山で三十年以上住持し黙照禅を興した。黙照禅とは公案を用いずひたすら坐禅して、内面的な自由の境地を獲得する禅で、また本来自性清浄の立場に立って、無所得、無所悟の禅であり、本来性に生かされている自己と親しむことを目的とする禅である。宏智の後に天童山に住持した天童如浄が道元が真の師匠として選んだ人である。
 一方、円悟克勤の弟子であった大慧宗杲は看話禅を発達させた。看話禅は公案を工夫して悟りに達しようとすることを禅修行の中心とするのである。しかしこの論争は宏智と大慧よりも主に大慧と真歇清了や両方の弟子たちの争いであり、大慧と宏智は私的行為において互いに親密であったといわれている。看話禅も黙照禅も六祖慧能の南宗の流れを汲んでいるので、その対立は禅の教えの上の相違ではなく、禅の指導方法の相違に過ぎないのである。
 宋時代の禅宗は、禅思想の形式化、寺院や僧侶の貴族化や世俗化という面は見られる。道元も中国で二年半にわたって各地の禅寺を訪ねて大慧派の禅を中心に真剣な禅修行を続けたが、どうしても自分が納得できる理想的な正師にめぐり合うことができず、日本に帰ろうと思った。しかし一方宋時代の禅は大衆化し、禅宗教団以外にも禅思想が広まっていく時代であった。新しい道教としての全真教の成立にも影響を与え、この時代に儒教、道教、仏教の調和も試みられた時代である。


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3) 道元の生涯


 日本の曹洞宗の高祖とされる道元についての研究が進んでいくが、資料不足のため、いくつかの難点がある。伝統的に彼についての問題は六つある。父母はだれで、詳しくいつどこで生まれたか。栄西禅師に実際に会ったかどうか。彼の悟りの様子。正法眼蔵は道元自身が体系的にまとめたかどうか。日本達磨宗の様子。漢字の正法眼蔵。この六つの点について色々な説があり、研究が進んでいくがいまだに決定しにくいところである。

 道元は1200年(正治二年)に京都で生まれる。父は村上源氏の流れを汲む久我通具(こがみちとも)、また一説に通具の父通親であるとも言われている。母は幼い道元を養子にした藤原氏松殿基房の娘と関係あるがその名前ははっきりしない。

 道元は小さい時から学問と宗教に非常な興味を持っていた。四才で「李`雑詠」を読み、七才で「左伝」や「毛詩」を読んだ。九才の時に世親の「倶舎論」を読み、十八才までに一切経(大蔵経)を二回読んだと言われる。天台の教え、大乗と小乗の教え、南インドの密教などを一八才までに修めたのである。

 道元が初めて宗教に心を向けたのは八才の時だった。
「八歳にして悲母の喪に遇い、香火の煙を観て、潜かに世間の無常なることを悟り、深く求法の大願を立てり」(三大尊行状記)。

 社会が混乱した時期に貴族の家で育てられた道元の幼年時代はどうだったか知ることができないが、常にその生活の空しさを感じたであろう。母が死亡したことをきっかけに出家を考え始めた。

 一三才の春、松殿の山荘をひそかに出て比叡山の麓に良顕和尚について出家を求めた。一年後天台座主公円について剃髪し、菩提戒を受け比丘となり、比叡山の学問を勉強し始めた。当時栄えた本学法門による本来本法身、人間は本来仏そのものだということを明らめた。しかしここにおいて、人間は本来仏であれば、どうして修行する必要があるかという大きな疑問が生じた。「三大尊行状記」に次のように書いてある。
 「宗家の大事、法門の大綱を学ぶに本来本法身、天然自性身という。顕・密の両宗、この理を出でず。大いに疑滞あり、もとより法身法性のごとくならば、諸仏はなにゆえに、さらに発心修行するや」。


 道元は一八才の時に比叡山を下り、三井寺の公胤僧正に相談したところ、中国に渡って、仏心印(禅宗)を学ぶことに決めた。その前に入宋して禅を伝えてきた栄西が開いた建仁寺へ行って、栄西の弟子、明全のもとで修行した。承久の乱に続いた厳しさのために入宋ができたのは実に二四才の春であった。明全と共に建仁寺を出て、博多から出発した。
 明州に到着して、降りる許可を待って三ヶ月ほど船の中に留まった。この時に有名な「典座教訓」に出る話しがある。理想を求めていた道元に日本の椎茸を買いに来た年老いた阿育王山の典座が日常生活の大切さを感じさせた。この典座の言葉にしても、天童山に行ってから、当時中国で有名だった臨済宗大慧派の無際了派のもとで修行して積んだ経験にしても、頭の中の知識ばかりでなく、実際の行を通しても学ばなければ真の悟りを開くことはできないと分かってきた。
 悟りの証しとして師から弟子へ伝わった詞書(伝法を記した相承図)をも見せてもらうことがあった。次の年無際が亡くなったのを機会に、道元は天童山を去り、その体験を十分に生かして釈尊の正法を極めるために真の名師を求めて、諸寺遍歴の旅を始めた。どこへ行っても道元の修行ぶりは認められ、何人かの禅師の法を継ぐことも勧められたが、彼は貴族化して、祈祷仏事になった禅風を継がず、二年半にわたって大慧派の禅を中心に真剣な禅修行を重ねながら、修行第一の正しい禅師を捜し続けた。

 ちょうどその時天童山に如浄(1163-1228)が住持した。道元はある老僧に勧められて如浄に会いに行った。出会った時、道元はこの人こそが長く捜し求めた正師であると直感した。如浄も普通に見れないような、修行の熟した弟子が来たと分かった。
 「大宋宝慶元年乙酉五月一日、道元はじめて先師天童古仏を妙高台に焼香礼拝す、先師古仏はじめて道元を見る。そのとき、道元に指授面授するにいわく、『仏々祖々、面授の法門現成せり。これすなはち霊山の拈華なり、嵩山の得随なり、黄梅の伝衣なり、洞山の面授なり。これは仏祖の眼蔵面授なり、吾屋裡のみあり、余人は夢也未見聞在なり』」(正法眼蔵、面授巻)。

 如浄禅師と目を合わせた瞬間に釈尊の正法が伝わったと道元は確信した。霊山で釈尊が蓮華を摘み上げ、迦葉尊者が微笑したように、嵩山で二祖慧可が達磨大師の神髄を得たように、黄梅山で五祖弘忍が六祖慧能に袈裟を渡して法を伝えたように、正法は如浄禅師を通して今道元に伝わって来たのである。修行が熟していた道元は如浄に会った瞬間悟りを開いたとも言える、しかし道元の悟りがはっきり現われる別の時がある。
 宝慶三年(1227)に、道元が坐禅修行に熱中にしていた時、僧堂で一人の修行僧が坐禅中に疲れて眠ってしまった。如浄はそれを見て大きな声で、坐禅に専念しなければならないのに眠るとはどういうことか、と叫んだ。夢中で坐禅していた道元はその叫びに悟った。後に方丈に上って、如浄の前で焼香する。
 「焼香の事いかん」と如浄が聞くと、「身心脱落し来る」と答える。「身心脱落、脱落身心」と如浄がその悟りを認めたと「如浄続語録」に書いてある。身も心も一切の束縛から離脱して大吾底の境界に至った。その時道元は坐禅の姿そのもの(只管打坐)が身心脱落の姿であるとはっきりわかった。
 入宋した目的を果して、翌1228年に帰国の準備をした。如浄は嗣書を始め、法衣などを親しく授け、帰国後も深山幽谷にかくれて自重自愛し、釈尊の大法を大切に護持してこれを日本の大衆にひろく弘めるように勧めたのである。

 帰ってからしばらく建仁寺に落着き、中国から経典も仏像も何も持って帰らなかった(空手還郷)と言い、自分にあるのはただ釈尊から正伝された真実の仏法だと言った。そして坐禅を根本とするこの真実の仏法を伝えるために「普勧坐禅儀」を著わした。しかし他の宗派と妥協しようとしなかったので、早くも比叡山や栄西の門派から反発を受け、建仁寺を去って、深草の極楽寺の跡に住んだ。ここで更に釈尊正伝の真実の仏法を明らかにするために「弁道話」を著わす。そして1233年にここで極楽時の一部であった観音導利院を中心に道元が立てた最初の道場、興聖寺が建立された。これから後に正法眼蔵にまとめられた諸巻が続いて書かれる。

 坐禅を中心とした道元教団はやがて世間の大評判になった。坐禅は日本でもう知られていたが、坐禅だけを修行法とする教団は他になかった。全国から各宗の僧侶、公家、武家が道元を慕って次々に新道場に集まって来た。特に最も注目されるのは孤雲懐弉を始め、懐鑑、徹通義介、義演、などを含めた臨済宗大慧派の旧大日派(日本達磨宗とも言われる)の合流である。それに伴って道元の教団は勢力を増した。しかしこの時期から臨済宗大慧派の流れを汲んでいた旧大日派の門下の指導のために臨済、特に大慧派に対する道元の態度は厳しくなり、懐弉らに大慧の看話禅からの脱皮を促した。中国で大慧派の禅を盛んに修行しても道元は貴族化していた大慧の禅より純粋に伝わって来た如浄の禅を選んだ。自分もそれを純粋に伝えるために大慧の禅を厳しく批判したのであろう。

 深草の道元教団は順調に発達していたが、京都周辺で大きな存在になったので天台教団から再び迫害された。それに対抗するために「護国正法義」を著わしたが天台教団の圧力によって朝廷から認めてもらえなかった。しかも1243年に円爾が臨済宗の無準師範の法を嗣いで帰国し、興聖寺の近くに東福寺を開いた。ここで天台・真言・禅の三宗を併置して勢力になったのである。道元はとうとう対抗できなくて1243年に興聖寺を去って、地頭波多野義重の熱心な誘いを受けて、越前の山奥の方に旅立った。この出発が七月十七日だったことは、如浄禅師がちょうど十五年前の同じ日に亡くなったと考えれば、如浄に分かれた時の勧め、
「深山幽谷にかくれて自重自愛し、釈尊の大法を大切に護持する」
という言葉を実行したと見える。

 越前に到着してまず禅師寺(やましぶ)に留まり、次に吉峰寺を第二の道場にした。北陸山間の厳しい寒さの中で想像していた以上の苦難に充ちた修行生活が道元禅師を待っていた。一年位の間に禅師寺と吉峰寺の二寺を往来しながら精力的に説法を続け、正法眼蔵の三分の一に当たる31巻が次々に発表された。この時期に道元の思想が極めて自由に発揚され、その特徴が鮮明に現われる。

 翌1244年に門下が増えたために場所が狭くなり、志比庄の大仏寺(後の永平寺)に移った。禅師寺や吉峰寺と同じく大仏寺も白山天台系の寺院で、白山天台衆徒の参加もあったようなのである。ここで心の自由や理想的な道場が得られて、説法を通して修行生活を徹底させようと努めた。最後の仕上げとして1246年に大仏寺の名前を「永平寺」に改めた。仏教が中国大陸に初めて伝来した後漢の永平11年から名を採った道元は、釈尊の正法を初めて日本に伝えたという自信に基ずいていたであろう。

 1247年の八月に、幕府の執権北条時頼の招きを受けて鎌倉に向かった。永平寺にとって大事な時期に、あんなに名利や権力に近付くのを嫌っていた道元が政治の中心であった鎌倉に行ったのは不思議と思える。さまざまな理由が考えられるが、一般大衆を救済する念願も強かったであろう。
「釈尊の大法を大切に護持してこれを日本の大衆にひろく弘める」
という如浄の最後の言葉を思い出して、京都で拒否されても、鎌倉で受け入れられるという期待もあったかも知れないであろう。執権時頼の帰依を受け、彼に菩薩戒を授けたが、一般の鎌倉武士の信仰は祈祷や密教的行事を好んでいたので、道元の期待が外れ、越前の永平寺に帰ったのである。

 永平寺の厳しい修行生活に戻った道元はいつの間にか病気になり、病状も進むばかりであった。自分の究極の理想を最後の著書になった「八大人覚」の巻で説いて、他の正法眼蔵の巻に少し手を加えた。1253年七月に、懐弉に永平寺の席を譲り、治療のために京都に向かった。八月二十八日、京都の宿で五十四年の生涯を静かに閉じたのである。


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4) 道元の禅


 道元の禅を知るために彼が著わしたものを見れば、数が多く、広い分野に及ぶのであるが、道元禅師の代表的著筆として一番よく知られているのは「正法眼蔵」なのである。1231年建仁寺を離れて、深草の安養院に着いた時に著わした「弁道話」の巻を始め、1253年死ぬ前の「八大人覚」の巻に至るまで道元が二十三年間にわたって仮名交りの和文で著わしたものである。「正法眼蔵」とは一切のものを映す(眼)、一切のものを包む(蔵)という働きをなす無上の正法を意味した題目であって、日本曹洞宗の根本宗典となったのである。道元はその時その時巻単位で著わし、百巻にする予定だったと思われるが、全体のまとめができなかったのである。正法眼蔵の編集として六つほどの系統で、六十巻本、七十五巻本、九十五巻本などがある。また和文の「正法眼蔵」に対して漢字で書かれた「真字正法眼蔵」三百則もある。  他の著述として時代を追って見れば、次のものがある。

 「宝慶記」は道元が南宋の宝慶元年(1225年)天童如浄に相見してから帰国するまで、対時に入室聞法したことが詳しく記録されているものである。
 「普勧坐禅儀」一巻は道元が宋から帰国したばかりの1227年に建仁寺で書いたものである。これは道元が開教伝道を始めてから最初の垂訓であると共に、坐禅をもって仏道の正門とする提唱である。短くても、仏道を学ぶすべての人の根本書である。
 「学道用心集」一巻は初心参学者に対して修道の用心を示した十章からなり、興聖寺時代(1234年)に書いたものである。
 「正法眼蔵随聞記」は道元が嘉禎年間(1235ー1238 )、日常その門下の僧衆に示した法語を集録したもので、弟子の懐弉が編集したとされている。 
 「永平清規」二巻は、1237年の「典座教訓」から1249年の「永平寺住侶制規」まで、叢林の規定とその意義を示したものである。
 「永平広録」十巻は道元の興聖寺、大仏寺、永平寺における上堂、小参、法語、頌古などを弟子の詮慧、懐弉、義演が集録したものである。


 以上は道元の著述を列挙したものだけであるが、道元の禅の思想の一番独特なところにも少し触れてみたいと思う。
正伝単伝の仏法、只管打座としての坐禅を中心とすること、工夫公案に対する現成公案の考え、修証一等の立場の四つの点が道元の禅の主な特色だと思うのである。

 まず道元が体得して伝えた仏法は正法であり、釈尊から正伝された最高の真実で(正法眼蔵涅槃妙心)、しかもそれは単伝である。仏法の中の一部、又一つの流れではなく、それは仏法全体である。彼は「宗」という言葉をもって釈尊の教えた真実を分けることを嫌っていた。最高の真理を学ぶことは無師独悟するものではなく、正しく伝わった仏法の真理を具現した人について学ぶことである。「正法眼蔵面授」の巻にこう書いてある。
 「かくのごとく、代々嫡々の祖師、ともに弟子は師にみえ、師は弟子をみるによりて面授しきたれり。一祖一師一弟子としてもあひ面授せざるは、仏々祖々にあらず」。(日本思想体系、道元、下、Pg.100)


 又「正法眼蔵弁道話」の巻では
 「宗門の正伝にいわく、この単伝正直の仏法は、最上の中に最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちいず、ただし打坐して身心脱落することをえよ。もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に打坐する時遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる」。(道元、上、Pg.13)


 ここでも明らかであるように、正伝の仏法の内容は坐禅であり、只管打坐である。式典の中の焼香や礼拝、また念仏のような工夫や精神的な懺悔が中心ではなく、ただ坐ることだけ、何も目的としない坐禅(無所得無所悟)、何の執着からも汚されない坐禅(不染汚の行)、仏の行としての坐禅が道元の禅なのである。坐禅は悟りに至るための方法として見るのでなく、坐禅の姿そのものが悟りの世界の姿である。一生懸命に坐禅する時に宇宙全体(遍法界、尽虚空)が仏の姿(仏印)、悟りの世界として現われてくるのである。 

 道元によって公案は看話禅の工夫公案から現成公案に発達する。公案一則一則を工夫して大悟徹底に至るための方法にするのではなく、目の前のありのままの姿(現)が完全無欠なもの、絶対の真実である(成)ので、すべてのものが生きた公案となるのは現成公案の立場である。看話禅のように古人の残した古則公案を通して仏法の真理を悟らせようという立場に対して、目の前に現われて、成立するすべての物や一切の現象を通して、仏法の悟りを得させようとするのである。こんなふうに公案を現成公案としてみることによって、公案は限られた数のものだけではなく、山も公案であれば、川も公案であり、花も、鳥も、風も、月もすべて公案として目の前に現われ、成立しているのである。

 以上見たように、只管打坐としての坐禅や現成公案の考えに、修証一如の考えもつながるのである。段階的に修行があって、その結果に悟り(証)を開くという考えではなく、最初から最後まで修行と悟りが離れず、悟りに基づく修行であり、修行から現われる悟りであると道元が強調する。また別の言葉で言えば、看話禅のように仏法の悟りを目標として、それに向かって進むのでなく、仏法の悟りは既に目の前に現われて、成立しているので悟りを背にして修行を進めるのである。又「正法眼蔵弁道話」の巻では
 「それ、修証はひとつにあらずとおもえる、すなわち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなわち本証の全体なり」。(道元、上、Pg.20)



 以上、道元の禅の特色を述べたが、注意することがある。当時の日本では主に臨済宗系統の看話禅が中国からそのまま伝わって来て、道元も栄西の禅を学び、中国で最初は臨済宗大慧派の禅を中心に学んだが、如浄禅師と相見してから宏智正覚の黙照禅の流れを汲んだ教えを身につけた。帰国してからただ如浄の禅を伝えただけではなく、更にその教えを日本的に発達させたことにおいて道元の偉大さが表われるのである。


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